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令和の時代から昭和5年の『蕎麦通』を読む <その4、蕎麦通の本文 総説を読む1>

 手打ちそば 喜心庵のニュース

令和の時代から昭和5年の『蕎麦通』を読む <その4、蕎麦通の本文 総説を読む1>
 「今の東京の蕎麦は、明治以前の蕎麦に比してひどく蕎麦らしくなくなった。その近因としては、機械打となって以来、未熟の人にも容易に製造し得られ、形骸にのみ偏して真の風味という事には、専門的な注意が徹底的に払われなくなったからだと思われる。」(蕎麦通総説より)

 製麺機は、明治16年に佐賀県の真崎照郷が発明しました。明治時代、東京のそば屋では、人目につかない場所に製麺機を置いて、こっそりと使い始めたといいますが、地方都市では、店の目立つ場所に製麺機を置いて、客寄せに使ったと言います。

 明治時代には、薄利多売の時代のニーズにあわせて、製麺機が普及して行きます。江戸時代から続いているような、東京の老舗そば屋さんも、いまではほとんどが機械打ちです。そのためか、今のそばの世界では、機械打ちは伝統、手打ちは革新、という奇妙な逆転現象が起きています。

 老舗のそば屋さんのほとんどが、いち早く機械を入れたのですが、機械でそばを打つ以外の点では、昔ながらの伝統を守ってきました。昔ながらの暖簾分け制度で、機械打ちを修行して、多くの人が独立して行ったので、伝統の機械打ちっていうことなんですね。

 いっぽう、手打ちのほうが革新といわれるのも『蕎麦通』の著者の村瀬長太郎も関わっています。

 昭和の始め頃ですが、東京新宿の駅前に、一茶庵というそば屋がありました。機械打ちのそば屋だったのですが、あるときお客から「なんというマズいそばだ!やぶ忠にでも行って、手打ちを習って来い」と言われたのだそうです。

 そのやぶ忠というのが、『蕎麦通』著者の村瀬忠太郎の店だったのです。お客にしかられた一茶庵の主人も奮起して、やぶ忠に出向いて手打ちを習得します。

 一茶庵主人は伝統の手打ちにとどまらず、革新的な手打ち技法を次々と考案して、独自の流儀をつくりあげました。だから、手打ちはは革新なんですね。

 戦後になりますが、一茶庵は手打ちそばの学校を開くことになります。最初は東京で、次に伊豆に移転し、今では横浜で開校しています。機械打ちそば屋から手打ちそば屋に転換したいそば屋さんとか、脱サラでそば屋を始めたい人とか、大勢の人が集まってきました。

 おそば好きの方ならご存知かもしれませんが、手打ちそばの神様ともあがめられている翁達磨の高橋邦弘氏も、この学校の第2期卒業生でした。

手打ちそば喜心庵

手稲区稲穂3条7丁目5−1

うどん・そば(蕎麦)[手打ちそば]

手打ちそば 喜心庵

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