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手稲区の前田について調べてみた! 前田の基本情報と前田農場の歴史

手稲区にある前田の基本的な情報や前田農場の歴史をまいぷれ編集部がまとめてみました! “前田”の名前の由来となる前田農場は一体どのようなところだったのか!? 札幌市西区にある手稲記念館や、前田ふれあいセンターなどを取材して調べてきました。 このページを読んでもっと前田に詳しくなろう!




みなさんこんにちは。

まいぷれ手稲編集部です!

今回は手稲区にある前田がどんなところなのか調べてみようということで、まずは基本的な情報を集めてみました!


前田の概要

上から見た前田エリア

人口    28,219 人 (H31.4.1 住民基本台帳)

世帯    13,834 世帯

年齢構成比 0~14歳 11.3%

      15~64歳 57.6%

      65歳以上  31.1%

面積    約 8.46 平方キロメートル

        

※行政が指定する区域の情報に基づいています。(参照:前田まちづくりセンター)

前田は、鉄北地区と並んで手稲区で一番人口が多い地域です。


歴史としては、1967年に手稲町が札幌市と合併した際、宅地分譲されて多くの人が転入してきたという背景があります。現在では区役所等の公共施設、教育施設、病院、商店街等の利便施設が多く集積しています。前田が手稲区の中心的な場所と言っても過言ではありません。


また下手稲通りという幹線道路やJR手稲駅も近く、その周りにはさまざまなお店があります。生活するにあたりとても利便性が高い地域であり、昔から長く住まれているという方も多いです。

なぜ“前田”という名称なのか?

前田自作農記念碑 所在地:前田8条11丁目

どこの地域でも気になるのですが、なぜ“前田”という名称なのでしょうか?


調べてみると、地域名称として“前田”が定められたのは昭和17年4月。明治28年旧加賀藩主前田利嗣(まえだとしつぐ)候「前田農場」を創立したのが始まりとのこと。ちなみに「稲積」は小樽の稲積豊次郎が始めた「稲積農場」が由来らしいです。


そこでふと疑問に思ったのですが、なぜ手稲は“手稲”と言う名称なのでしょうか?


こちらは調べてみると、アイヌ語で“霧深く湿ったところ”を意味する『テイネテ』と言う言葉が由来だそうです。この手稲の地域は昔、湿地・泥炭地が多い場所として知られていたのでした。

旧前田農場で飼料を貯蔵していたレンガのサイロ 

所在地:前田7条11丁目 前田公園内 

東宮駐輦記碑(とうぐうちゅうれんきひ)

所在地:前田7条11丁目 前田公園内


明治44年(1911年)8月、前田農場を当時の東宮(後の大正天皇)が視察した際、東宮が行啓(ぎょうけい)したことを記念して農場の庭園内の御便殿のとなりに建てられた。

手稲と前田の歴史


手稲村開村の発端

手稲開基百年記念碑 所在地:手稲記念館

手稲村が開村したのは、明治5年(1872年)のことです。


台白石片倉藩の家臣北海道開拓を発意し、石狩に到着して仮泊した上手稲四十七戸が定住したのが始まりです。発寒村から分村の布達が出されて手稲村となりました。


それまでにも何度も手稲の地域を開墾しようと試む人たちはいたのですが、みなあまりうまくいかなかったようです。もしかしたら湿地や泥炭地が多かったことも関係していたのかもしれません。

上手稲開村記念碑 所在地:手稲記念館

前田農場について

■明治維新と前田家

明治維新の大変革によって、多くの大名・武士などが失業しました。そしてそれは日本一の軍事・経済力を持つ加賀藩(今でいう石川県富山県の一部)も例外ではありませんでした。


そこで、時の当主前田利嗣は失業した加賀藩士の職業先を開拓しようと決心をします。

加賀前田家第15代当主 前田利嗣

■前田農場の創立

写真提供:札幌市手稲区ホームページ

明治17年(1884年)、前田利嗣は後志管内共和町前田地区で士族79戸を開墾に従事させ、成功を収めます。


これで力を得た利嗣は札幌周辺地域での「前田農場」創立に意欲を燃やします単に土地を貸して小作農収入を上げるのではなく、直営大農場として、畑作・育牛・牛乳・バター・チーズ・種牛などの農畜産物加工・販売で利益を上げようと利嗣は考えます。



明治27年(1894年)茨戸の堀農場を買収し、翌28年には手稲村字軽川で未開墾農場を購入。本場を茨戸、市場を軽川に置き、とうとう「前田農場」を創立しました。


総面積は368ヘクタール総投資額は3万7千8百39円。これは今でいう約1億2千万円相当に値します。

■最盛期の前田農場


しかし最初から上手くいくというワケではなく、前田農場は度重なる石狩川の氾濫により打撃を受け続けます。


立地条件に適応する経営形態にするため明治32年(1899年)育牛に重点を置く方向性に変更。牛の品種改良に力を入れ、機械力の導入を図り大方農法に転換していきます。明治33年(1900年)、優れたリーダーシップを発揮していた利嗣が志半ばで病没。16代目利為に事業は引き継がれました。


明治39年(1906年)には軽川に本場を移転。合わせて造林事業バター製造事業に着手します。


明治41年(1908年)、前田農場総面積2006ヘクタールになり、その大きさは開設当時の6.5倍となります。最新式の大型農業機械を導入し、育成した乳牛は国内だけでなく中国や朝鮮にも輸出するようほど農場は成長。北海道開拓や日本の畜産業の発展に大きな役割を果たし、東北の小岩井農場と共に大農場経営の手本とされます。


明治44年(1911年)には皇太子殿下(後の大正天皇)が行啓・視察に訪れるという光栄なこともありました。

大正天皇が訪れた際に建てられた記念碑

写真提供:札幌市手稲区ホームページ

■前田農場の衰退


大正末期第一次世界大戦後の不況関東大震災という政治経済・思想の分野で不安定な時期を迎えます。ずっと絶好調だった前田農場でしたが、丁度この時期に石狩川治水工事の遅れ資本の進出による牧畜業の競争激化小規模の牧畜業者の倒産小作農民の自作農自立要求などが相次ぎました。


しかしそれはほんの序章に過ぎません。生産性向上のためにはホルスタイン種乳牛への切り替えが不可欠でしたが経済不況により種牛変更の投資が出来ず、全道に広がった乳牛結核病が前田農場でも大流行し大半の牛が病気になりました。この二つが決め手となり前田農場は牛乳とバターは販売停止牛は大量処分という判断を下さなければならず、農牧業収入がゼロになってしまいました。


■前田農場の終焉


前田農場は事業転換を試みて経営規模を縮小しますが、なかなか順調には進みません。前田農場が小作地の処分を続けている間、金銀鉱山業者手稲山にあった前田農場の植林造成地区にも進出し、鉱業権を設定します。植林地の荒廃も目立ち始めたことから昭和12年(1937年)、前田農場の全面売却を決定。翌年の二月に前田農場を廃止し軽川詰所に改め、残地処分を進めます。


すべての土地の処分が完了するのは昭和21年(1946年)。前田農場50年の歴史がここで幕を閉じました。

昭和7年から10年までの間に、

前田地区の51世帯が自作農として独立を果たした。

記念として自作農記念碑が建てられ、

自作農となった人たちは言葉に表せないほど感激に満ちていたと言われている。

写真提供:札幌市手稲区ホームページ

その後の“前田”

1960年ごろまでは農業地帯だった前田地区。それ以降急速に住宅地として発展し、人口が増加します。

今では多くの公共施設が前田にあり、とても生活のしやすい地域となりました。


このような時代背景があって前田が出来たということをみなさんはご存知だったでしょうか?

あの有名な小岩井農場と共に大農場経営の手本にされるような農場がこの地域にあったなんて凄いですね!

今でも前田のあちこちで前田農場の名残を見ることができます! みなさんも是非、歴史の一コマを探してみてください!

手稲記念館に行ってみよう!

 

今回、前田の記事を書くにあたって、西区にある手稲記念館にお邪魔してきました!

前田に限らず旧手稲町(現在の手稲区と西区の一部)についての様々な情報が展示されていてとても楽しめました。

熊など動物の剥製や、昔の人が使っていた農機具なども展示されていて視覚的にも楽しめます。

入場料も無料ですので、興味がある方は是非行ってみてください!

(手稲記念館ですが西区にあるので気を付けてくださいね!)

熊の剥製。なかなかの迫力。

手稲開拓や昔の人の生活に使われた道具が展示されています。




手稲記念館

住  所 札幌市西区西町南21丁目3-10

電  話 011-661-1017

アクセス 地下鉄東西線「宮の沢」5番出口から約560m

営業時間 9時00分~17時00分(展示室) 

定 休 日  火・木・日曜,祝日,年末年始

入 館 料  無料

付録『手稲と前田の主な出来事』の年表はこちら

1872(明治5年)  

・仙台白石藩の人々が上手稲に移住し手稲村が始まる。世帯数47人口114人127人


1873(明治6年)  

・札幌~小樽間に道路が出来る


1877(明治10年)

・初代戸長が任命される。世帯数94総人口379人


1880(明治13年) 

・手宮(小樽)~札幌間に鉄道開通、翌年軽川簡易停車場開業する


1882(明治15年) 

・手稲村は上手稲村・下手稲村・山口村の三村となる


1888(明治21年) 

新川が掘られる

・手稲(軽川)と石狩(花畔)を結ぶ道路ができる


1891(明治24年) 

・星置の鳥谷部弥平治さんが手稲山で金の鉱脈を発見


1895(明治28年) 

・前田利嗣候、前田に農場を開く


1911(明治44年) 

・皇太子殿下(後の大正天皇)前田農場を視察


1912(明治45年/大正元年) 

・日本石油製油所が軽川で開業

・手稲遺跡が発見される

・この頃には世帯数695総人口4324人


1922(大正11年) 

・軽川~花畔間に馬車鉄道が走る


1934(昭和9年)  

・札幌と小樽間に省営バス開通


1935(昭和10年) 

手稲鉱山が本格操業開始


1936(昭和11年) 

・「自作農記念碑」が建てられる


1938(昭和13年)  

前田農場が歴史を閉じる

・この頃の世帯数2247総人口11944人※昭和15年時


1942(昭和17年) 

・地名として「前田」が定められる


1945(昭和20年)

・戦争で手稲町にある日本石油の製油所が標的にされて空襲を受ける


1951(昭和26年) 

・手稲村から手稲町に変わる。世帯数1787総人口10157人


1952(昭和27年) 

・軽川駅から手稲駅に名前が変わる


1953(昭和28年) 

・前田11-10近辺で土器が見つかり、翌年、手稲遺跡として調査される


1957(昭和32年) 

・手稲山に初のテレビ放送塔ができる


1965(昭和40年) 

・手稲鉄北小学校開校。この時世帯数6776、総人口26997人

テイネオリンピアスキー場開業(現サッポロテイネ)


1966(昭和41年)

・どんどん人口が増えていき、世帯数7581総人口30012人に。


1967(昭和42年) 

手稲町が札幌市と合併

・北海道工業大学(今の北海道科学大学)開学


1971(昭和46年) 

・札幌自動車道(札樽バイパス)開通

・手稲鉱山が閉山される


1972(昭和47年) 

・第11回冬季オリンピック開催、手稲山がアルペン競技とそり競技の会場になる

・札幌市が政令指定都市になり、旧手稲町区域は西区となる


1975(昭和50年)

世帯数12864総人口44071人


1976(昭和51年)

・手稲高校新校舎が落成し移転


1978(昭和53年) 

・前田小学校開校


1979(昭和54年) 

・前田会館ができる

・下手稲通が石狩手稲通まで開通


1980(昭和55年) 

・前田北小学校開校

・西区体育館(現在の手稲区体育館)完成


1982(昭和57年) 

・前田中学校開校

・手稲駅北口ができて前田方面の人が便利になる

・「ていねプール」完成


1984(昭和59年) 

・前田公園で遺跡の発掘調査が行われる

・手稲郵便局が富丘から前田へ移転


1985(昭和60年)

世帯数26177総人口85144人


1986(昭和61年) 

・前田中央小学校開校


1987(昭和62年) 

・手稲渓仁会病院が開院


1989(平成元年) 

・西区から分区し、手稲区が誕生


1990(平成2年)

世帯数35363総人口110974人


1991(平成3年)  

・軽川桜づつみ完成


1992(平成4年)  

・前田森林公園が完成する


1993(平成5年)  

・前田しらかば児童会館開館


1994(平成6年)  

・前田北中学校開校

・手稲曙温水プール完成


1995(平成7年)   

・下手稲通全線開通


2002(平成14年) 

・現在の手稲駅開業


2004(平成16年) 

・手稲警察署開設


2009(平成21年) 

「ていぬ」が発見される


2014(平成26年) 

・「北海道工業大学」から「北海道科学大学」となる


2017(平成29年) 

・手稲町と札幌市が合併して50周年を迎える


2019(平成31年) 

・手稲区が誕生して30周年を迎える

世帯数59590人総人口141858人に ※令和元年5月1日現在

参考文献:札幌市手稲区ホームページ

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